大判例

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東京高等裁判所 昭和59年(う)1932号 判決 1985年3月19日

被告人 山村富重

昭九・一・五生 ガードマン

主文

本件控訴を棄却する。

当審における未決勾留日数中五〇日を原判決

の刑に算入する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人大嶋芳樹提出の控訴趣意書に記載されたとおりであるから、これを引用する。

控訴趣意第一(不法に公訴を受理した違法があるとの主張)について

所論は、原判決には不法に公訴を受理した違法があるから、刑訴法三九七条一項、三七八条二号により破棄されるべきであるとして次のとおり主張する。すなわち、(1)本件捜査手続において、警察官四名が被告人を通常逮捕するに際し、被告人に対しアタツシユケースで殴打したり足蹴りするなどの暴行を加え、前歯折損、第六肋骨骨折等の傷害を負わせたが、警察官のこれら暴行陵虐行為は適法手続を保障する憲法三一条、公務員による拷問を禁止する同法三六条に違反するものである。(2)右通常逮捕に際し、警察官において予め被告人に逮捕状を示さなかつただけでなく、被疑事実の要旨さえも告知せず、自動車内に連行して初めて逮捕状を示したものであつて、被告人の右逮捕は刑訴法二〇一条一項または二項に違反し、令状主義の原則を規定する憲法三三条の趣旨を没却する違法な行為である。(3)警察官らは、被告人を警察署に引致したのち被告人において警察官らの前記暴行により蒙つた胸部及び歯の痛みを訴えていたにもかかわらず、被告人に直ちに治療を受けさせるなど適切な措置を施さなかつたばかりでなく、被告人において弁護人に相談するため家族への連絡を要求したところ、被告人が未だ接見禁止処分となつていないにもかかわらず、被告人に対して「お前は接見禁止だ」などと虚偽の事実を申し向けて被告人に対する取調や強制採尿等を優先的に行つたものであつて、警察官らのこれらの各行為は被告人に対する陵虐であり、公務員の拷問を禁止した憲法三六条に違反するものである。(4)以上のような警察官による違法な捜査を基礎とした本件公訴の提起は、公訴権の濫用にあたり、刑訴法三三八条四号により棄却されるべきであつたし、またデユー・プロセスを貫徹し違法捜査を抑止するためにも右条項に基づき棄却されるべきであつた。しかるに原判決は不法に本件公訴を受理し、事案の実体につき有罪の判断をしたのであるから、破棄を免れない、と主張する。

しかしながら、本件記録によると、以下に説示するとおり、本件の捜査手続には所論のような違法のかどはなんら存せず、これが適法なものであつたことは明らかというべきであるから、右捜査手続の過程に違法の存したことを前提とし、不法に公訴を受理したとして原判決を縷々論難する所論は、既にその前提において失当というべきであつて、採用の限りではない。すなわち、前掲各証拠によると、昭和五九年六月一八日午前九時三〇分頃小岩警察署の警察官四名が覚せい剤譲渡の被疑事実で被告人を逮捕すべく被告人方に赴き、被告人の妻に対し警察の者であることを告げたところ、被告人において、その前日覚せい剤の自己使用(本件事案)をしていたところから、いち早くその嫌疑で警察官が逮捕に来たものと察知し、これまでの前歴からして逮捕されれば実刑は免れないものとの思いから、直ちに逃走を企て、そのままの服装(ステテコ姿)で自宅二階の物干場から屋根伝いに裸足で逃走したこと、そしてその近くを隠れ廻り、被告人方隣家のアパート若宮荘の二階便所内にしばらく潜んで様子を窺つたのち、同日午前一〇時少し前頃二階の中廊下に出て、忍び足で歩いていたところを警察官から声をかけられ、慌てて逃げ出したこと、しかし同アパート一階中廊下において警察官二名に右廊下の両側から挟み打ちにされる状態となり、逃げ道を塞がれたため、尋常な手段では逮捕を免れえない状況に追い込まれたこと、そこで被告人において逮捕を免れるべく、被告人を取り押さえようとした警察官右両名並びに被告人の所在を知つてその後駆けつけ被告人の取り押さえに加わつた警察官の計三名に対し、その手を振り払いさらにその手指に噛みつくなどして激しく抵抗したこと、警察官らは被告人を取り押さえるのに懸命であつて、そのうちの檜森警部補において、被告人が暴れている最中に、同被告人に対し、逮捕状が出ている旨を告知したものの、逮捕状を示すとか、その被疑事実の要旨を告げ得るような余裕も状況にもなかつたこと、警察官らは被告人の両腕を三人がかりで同人の身体の背後に廻して抵抗を押し止めて、ようやく同日午前一〇時頃同所において被告人に後ろの両手錠をかけて逮捕し、なお逃走しようとして抵抗を続ける被告人を直ちにそこから約一〇メートル位離れていたところに駐車させておいた小岩警察署の自動車内に連れて行き、すぐ檜森が所携の逮捕状を被告人に示し、かつ口頭で被疑事実の要旨を告げ、その後前の両手錠に直したこと、その後小岩警察署に連行し、右事実につき弁解を聴いたが被告人は否認したことの各事実が認められる。ただ被告人の供述では原審及び当審において、右のように自宅に訪ねて来た者が警察官とは知らず、借金しているサラ金業者の取立ての者と思つて逃げたと弁解している部分があるが、しかしながら被告人が任意にかつ真実を語つていることを是認している司法警察員に対する供述調書によれば、前記認定に沿う供述をしており、そしてそれによれば檜森ら四名を警察官と知り、彼らが自分を覚せい剤取締法違反の罪で逮捕に来たことを直感したからこそ、後記のように取るも取り敢えず物干場からそのままの服装で逃げ、かつ逮捕されそうになり身体を掴まれるや、必死の抵抗をしたものと解されるのであつて、サラ金の取立て者云々の点は単なる弁解にすぎずこれを信用することは到底できない。他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

そこで先ず所論(1)についてみるに、前記認定のようにその逮捕されるときに、被告人の警察官に対する抵抗がいかに激甚なものであり、かつ必死なものであつたかは、被告人が警察官の来訪を知るやステテコ姿のまま自室を飛び出し、二階物干場から屋根伝いに逃げ廻り約三〇分に亘りその追及の手を免れたが、若宮荘の一階中廊下で警察官に挟み打ちになると、それでもなんとか逮捕を免れんとして暴れ廻りその両腕を掴まれるや、制止する警察官らの手指に噛みついてまでして同人らの手をほどこうとし、さらにそのように必死に抵抗するには被告人には身に憶えのある本件の覚せい剤の自己使用によつて、その実刑必至の恐怖があつたなどの各事実から十分に窺われるところであつて、警察官らが被告人の激烈な抵抗を排除かつ取り鎮めて逮捕するため、それに必要な限度で受動的に外力を行使したとしても、そのことは事の性質上当然許されるところであつて、なんら異とするに当たらない。ところが所論は、本件の逮捕の際には、その外力の行使が度を越して所論指摘のような暴力が警察官によつて被告人に対し行使されたとする。しかしながら右主張に沿う証拠は、被告人の弁解があるのみであつて、原審証人檜森武郎及び当審証人和田政治は、両名ともそのような行為はなかつたことを明確に否定している。それに対し所論は、次のような裏付けがあると主張する。所論は先ずその主張のような暴行により、被告人は第六肋骨骨折の傷害を受けたとし、これをもつて右暴行の有効な裏付けとしている。だが原審記録によれば被告人の所論の部位に「ヒビが入つた」程度の亀裂骨折が生じていることは認められるとしても、その受傷の原因、時期は不明であり、被告人は前記屋根伝いに逃走し約三〇分間に亘り追跡の警察官らの眼を免れて逃げ廻つていたのであつて、むしろその間の被告人のやみくもな行動において生じたことも十分に推測できるのであるから、右受傷をもつて被告人の弁解を裏付けるものとするわけにはいかない。次に所論は、アタツシユケースをもつて前歯を殴打される暴行により、被告人の上左前歯一本は根元から折損し、下前歯二本はぐらぐらとなる傷害を受けたとし、右暴行を受けたことの裏付けとして主張し、被告人も右に沿う供述をし当審にも同趣旨の上申書を提出している。ところで警察官三名が逮捕時に被告人にそれぞれの手指を噛まれたとの点につき、被告人は、右のようなアタツシユケースによる暴行を受けたため、上左前歯が折れたのであつて、それで折れた部分がとがり、警察官が同人の顔をこずきにきたときに、それを避けるためその折れた歯で警察官の手にひつかき(上申書では「しつかき」となつている)傷をつけたが、噛んだのではないと弁解する。しかし当審での被告人の供述によれば、被告人が折損したと称する歯はその両側の歯より凹型に引込んでいて、その折れた歯で警察官ら三名の手指に原審提出に見られるような傷を生ぜしめるように「ひつかく」ことは到底不可能であることが一見して明らかである。のみならず、原審記録によれば被告人は逮捕されて翌一九日に胸痛につき内科医の診察を受けているのに、歯については申立てず、約一〇日後の六月二七日頃疼痛を申立てて翌二八日篠崎歯科の治療を受けたにすぎず、そのとき後記のように下前二歯を抜歯しているのであるが、その際折損したと称する前記上左前歯についてはなんら治療らしきものを受けず、また異常を申立てた形跡も見当たらない。だとすると、前記上左前歯の欠損の状況が右逮捕時に生じたものかどうか極めて疑わしい。さらに警察官の暴行によりぐらぐらになつたという下前二歯については、右同日篠崎歯科で二本とも抜歯されているが、ぐらぐらになつた原因は最重度の歯槽膿漏であつたことは明白であると同時に、外力による腫れや傷跡等は不明であつたのであつて、右二歯がぐらぐらの脱落状態になつた原因は、明らかに逮捕時に受けたと称する外力ではないというべきである。だとすれば、前記逮捕時の外力によつて、その弁解のような上下の前歯に傷害を受けたとする事実は存在せず、したがつてこれをもつて被告人の前記弁解の裏付けとすることはできないのみならず、かえつて暴行を受けたとする被告人の弁解が信用できないことの有力な反証となるというべきである。この点に被告人は種々それらに関する弁解を重ねているが、いずれも前記認定の客観的事実に符合せず、弁解のための弁解の感を免れず、信用に値しない。以上の諸点から逮捕時に胸と前歯に警察官から暴力を受けたとする被告人の原審及び当審の供述並びに弁解は、いずれも信用することができないといわなければならない。他に所論の警察官の暴力を証するに足りる証拠は存しない。したがつて所論(1)は、その前提たる事実を欠き、他を判断するまでもなく理由がない。

次に所論(2)についてみるに、警察官が被告人の逮捕のために、同人方に到着してから本件逮捕現場に至るまでの、被告人の具体的行動と認識並びに逮捕に臨んだ四名の警察官の具体的言動については、すでに認定したとおりであるが、それによれば、前記若宮荘一階中廊下において、被告人に接触した警察官らは、必死に逃走を試みて抵抗する被告人をその場で取り押さえるのに懸命であつて、後手の両手錠にしたのもその抵抗を排除するのを主眼としていたものというべく、その段階で被告人を逮捕しているのであるが、それまでの間に檜森警部補は、その所携の逮捕状を被告人に示す機会も状況もなく、被告人においてそれを示されても見る余裕など全くなかつたことが認められるところ、その倥偬の間にあつて檜森は被告人に対し逮捕状の出ていることは告げており、一方被告人は逮捕の被疑事実が覚せい剤取締法違反の事実であることは、仮りに告げられなくても十分知つていたものであり、右手錠をかけられたときにはそのことによつて逮捕されたものと認識しており、なお檜森ら警察官は、被告人に右のように後手錠をかけるや同人を直ちに逮捕現場から僅か約一〇メートルしか離れていない自動車の中に連行し、そこですぐ被告人に逮捕状を示し、口頭で被疑事実を告げていることが認められるのである。このような右一連の具体的状況、とくに逮捕時に密接しかつ殆んど逮捕現場と同一場所と目される場所において被逮捕者である被告人に逮捕状が示されている事実にかんがみるならば、本件は被告人を逮捕するに当たり、同人に逮捕状を示して逮捕したものというべく、右逮捕は適法であつて、なんら刑訴法二〇一条一項違反の廉はないということができる。結局所論は前提を欠き理由がない。

所論(3)の点についてみるに、原審記録及び当審で取調べた証拠によれば、逮捕の翌日すなわち昭和五九年六月一九日被告人の訴えによつて小岩警察署では、佐藤医院において被告人にその胸部の診察を受けさせ、右側胸部打撲症の診断の下にその相応する治療を継続して行つており、なお同年七月一六日東京拘置所に入所して後被告人の訴えにより、同月一九日レントゲン線の検査によつて右第六肋骨に位置異常のない「ヒビが入つた」程度の亀裂骨折があることが判明したこと、また前歯についてはすでに認定したように、被告人の訴えにより小岩警察署は被告人に同年六月二八日篠崎歯科医院において治療を受けさせ、ぐらぐらしている下前歯二本の抜歯をしていることが認められるのであるから、所論の前半は被告人の単なる非難にすぎず、所論後半の接見禁止云々の点及び弁護士や家族への連絡を阻止したとする点の主張は、被告人の一方的主張であつて、これを証するに足りる証拠はなく、所論は到底採用できない。

以上の諸観点から公訴棄却を求める所論は理由がない。

控訴趣意第二(事実誤認の主張)について

所論は、公訴棄却の主張を前提とし、すでに第一において主張した事実を重ねて主張し、それにそぐわない原判決には事実誤認があるというものであるが、しかしながら所論の点につき原判決にはなんら事実の誤認のないことはすでに説示したとおりであるばかりでなく、そもそも所論のいわゆる「事実」なるものは刑訴法三八二条にいう「事実」には当たらないこと明白であるから、右事実誤認の主張は、控訴理由としては不適法なものというべきであり、採用の限りではない。

控訴趣意第三(量刑不当の主張)について

原審記録を調査検討し、当審における事実取調の結果をも合わせて判断すると、本件事案の内容は原判示罪となるべき事実のとおり覚せい剤の自己使用事犯であるところ、被告人はこれまで昭和二九年から同四七年までの間詐欺、窃盗、競馬法違反等の罪により懲役刑に二回、罰金刑に一回それぞれ処せられているほか、昭和五三年一一月から同五六年七月までの間三回にわたつて、本件と同種事犯である覚せい剤の自己使用の罪により懲役刑に処せられているのであつて、覚せい剤とのかかわりには根強いものがあるというべく、犯情は悪質であり、これら諸点を総合すると、縷々説示するまでもなく、被告人の責任は重大であるといわなければならない。

してみると、本件が一回限りの覚せい剤の自己使用事犯であること、被告人の現在の心境、家庭の事情等被告人に有利な情状を十分斟酌しても、原判決の量刑をさらに軽減変更すべきほどの特段の事由は認められず、その量刑が重すぎて不当であるとは認められないから、量刑不当をいう論旨も理由がない。

よつて刑訴法三九六条により本件控訴を棄却し、当審における未決勾留日数中五〇日を刑法二一条により原判決の刑に算入し、当審における訴訟費用は刑訴法一八一条一項但書によりその全部を被告人に負担させないこととして、主文のとおり判決する。

(裁判官 石丸俊彦 高木貞一 小田部米彦)

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